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2015.07.13

松田屋と維新

松田屋ホテル謹製 明治維新史跡探訪地図


文久三年(1863年)、藩主:毛利敬親は幕末の有事に備えて藩庁を萩から山口に移し
元治元年(1864年)、山口御屋形(山口城)が竣工しました。
そうして多くの志士たちが各地から集まり、抗幕に向けて密議を交わし力をつけていきました。

現在の山口市内には当時の時代をしのばせる史跡が残っています。
松田屋ホテル謹製の地図をお持ちになり、ちょっとディープな維新探訪にお出かけになりませんか?

ダウンロードはこちらからどうぞ
※印刷して観光にお役立て下さいませ

松田屋ホテル謹製 明治維新史跡探訪地図

大内文化探訪地図はこちらから



1.井上馨の墓
  井上馨は長州藩士、井上家の次男として天保6(1835)年に湯田で生まれ、
  大正4(1915)年に東京で亡くなりました。後に分霊が洞春寺に祀られました。
2.香山墓所
  この墓所には13代藩主毛利敬親夫妻、敬親の養子元徳夫妻、孫の元昭夫妻、
  さらに毛利本家歴代諸霊の墓などがあります
3.露山堂
  藩主毛利敬親が藩庁を山口に移した際、一露山のふもとに建てられた茶室です。
  敬親は茶事に事寄せて志士達と密議を交わしました。
4.錦の御旗製作所
  慶応3(1867)年倒幕の勅命が下り、品川弥二郎は京都西陣で材料を購入し、
  ここにあった養蚕所の一室で御旗の製作にあたりました。
5.枕流亭
  道場門前にある旧家阿部家の離れ座敷で、
  薩長の勤皇の志士が多数出入りし薩長連合の密議が交わされました。
6.旧藩庁門
  毛利敬親は幕末の有事に備え藩庁を萩から山口に移し、
  文久3(1863)年に政事堂の建設に着手しました。
7.十朋亭
  十朋亭は旧家萬代家の離れ座敷で、江戸時代末の建物です。
  萬代家は勤皇の志士達の活動を支援したため、多くの志士達がここに集まりました。
8.長寿寺
  慶応元年(1865)御楯隊の駒井政五郎が鴻城軍を組織し、
  長寿寺を本部として活動しました。
9.赤根武人処刑跡
  赤根は3代目奇兵隊総督となり活躍しましたが、
  藩内の俗論派と正義派諸隊の調停を図ったことが二重スパイと疑われ、
  この地で処刑されました。
10.七卿遺跡の碑
  山口に落ち延びた三条実美(さねとみ)、三条西季知(すえとも)、
  壬生基修(もとなが)、四条隆謌(たかうた)、錦小路頼徳(よりのり)、
  沢宣嘉(のぶよし)、東久世通禧(みちとみ)らの忠節を偲び建立されました。
11.井上馨遭難の碑
  井上は元治元年(1864)中園町袖解橋で藩内の反対勢力に襲われ重傷を負いましたが、
  医者の所郁太郎によって一命をとりとめました。
12.周布政之助の碑
  幕府の考え方に従おうとする俗論党に藩政の主導権を奪われた責任を取り、
  周布は自刃しました。その場所の近くに碑が建っています。
13.朝倉八幡宮
  幕末、山口に落ち延びてきた三条実美ら七卿が湯田に滞在していたとき、
  尊皇攘夷の祈願のため朝倉八幡宮に度々参拝しました。
14.木戸神社
  木戸孝允は亡くなる前に、邸宅と山林を子弟の学資にと糸米の住民に与えました。
  住民はこれに感謝して社を建立し神霊を祀りました。
15.普門寺塾跡
  大村益次郎は普門寺の観音堂で学生達に兵学を教えていました。
  当時、この塾は普門寺塾と呼ばれていました。
16.明倫館兵学寮跡
  山口明倫館は文学寮と兵学寮に分かれ、
  兵学寮には歩兵、騎馬兵、砲兵の三兵塾がありました。